ニガタガタガタニガタのブログ。

地方の会社員。平成一桁世代。いつかエッセイ本を出しておばあちゃん家の仏壇に飾りたいと思ってます。

中島らものエッセイが面白くて絶望してる。

私の父は本が好きだ。還暦前になって少し落ち着いたが、私たちが中学生・高校生の時には何かから逃れるようにむさぼるように次から次へと本を読んでいた。多分、その頃のうちの家計は歳の近い三姉妹の食費に教育費に部活の遠征費にと毎月毎月火の車で、気を抜けば振り落とされそうな日々の中の逃避が本だったんだろうと思う。

「きれいな文章を読みたいならエッセイを読め。エッセイが一番。」と父は本の話をするたびに言っていた。何かの本の引用なのかもしれないが(父の言うことの全ては何かしらの本からの引用だと疑ってる。)、父の洗脳のおかげで私はエッセイが文章界のピラミッドの一番てっぺんにあるものだと思って生きてきてしまっている。

父の本棚にあったエッセイで高校生の私が一番天才だと思ったのは中島らもだった。多分、その時に読んだのは『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』だったと思う。例えるなら、私がぐらぐらと両手を広げながら恐る恐る歩いている平均台の上で、この人は宙返り、バク転、バク宙をクルクルと繰り返しているみたいに言葉の使い方が自由で上手くて、こんな人がいるのかとびっくりした。同時に「私もこんなに破天荒な人生を送らないとこんなに面白い文章を書くことはできないのか?」と泣きそうになったが、破天荒な人生を過ごしてたからこんなに面白いのか?、もともと面白い文章を書ける人の人生がめちゃくちゃ破天荒だったのか?、そもそも破天荒な人生という言い方はあっているのか?、そもそもお前は破天荒の意味をちゃんと知ってるのか?と、脳内のアセスメントおばさんがうるさいので今日は考えるのをやめておく。

そして最近、また父に借りて、約10年ぶりくらいに中島らものエッセイを読んだのだが、ちゃんと面白くて震えた。上から目線みたいだが、「ちゃんと」というのは私の感性がちゃんと面白いと思える感性のままでいれたという安堵感の「ちゃんと」である。(『中島らもエッセイ・コレクション』の中では、「あの日の風景」という一編が好きになった。)

一流の和食の料理人が使う包丁のようにシュッと細身で鋭い切れ味の中に、今まで生きてきた人生からギューっと抽出された優しさが加えられたような文章がやっぱりすごくて面白くて好きだった。それに比べると私の書く文章なんか、初めての子ども包丁、いや、バターナイフくらいの切れ味だな。とりあえず練習、練習だ。